※以下、文書全文です。
- 日本では、シェルター整備の必要性は認識されつつも、実際の普及には至っていない。
- その背景には「11の壁」とも言える多層的な障壁がある。
- この状況はゲーム理論で説明できる。すべてのプレイヤーが合理的に行動しているつもりでも、結果として全体が動かなくなる非合理な停滞が生じる。
- 打開には言葉より行動によるメッセージングが必要。
小さな取り組みでも、それを見せることで、社会に安心感が生まれる。
これはロールモデルの提示であり、行動が次の行動を生む連鎖の起点となる。 - 制度やインフラ整備と並行して、こうした心理的障壁にアプローチする姿勢が民間・個人レベルの普及に不可欠である。つまり、「最初の一歩を誰が踏み出すか」が社会の動き出しを左右する鍵となる。
2025年。阪神・淡路大震災から、ちょうど30年が経ちました。
この30年間に、私たちは幾度となく「激甚災害」という現実に直面してきました。
東日本大震災、西日本豪雨、熊本地震、能登半島地震、そして気候変動にともなう線状降水帯やスーパー台風、さらにはパンデミックや大規模停電といった新たな脅威も加わり、「備えるべきもの」は明らかに増えています。
大きな脅威が過ぎ去る度に、私たちは「命と社会機能を守る設備」が足りなかったと振り返ってきました。
けれども、実際にはそうした整備は一部にとどまり、制度や社会的認識としても十分に定着しているとは言い難いのが現状です。
多くの人は、「備えているつもり」でいます。
避難バッグを用意し、ハザードマップを確認し、「いざとなれば公民館に行けばいい」と考えているでしょう。もちろんそれも正解のひとつです。
しかしそれは「ハザード(災害)から逃れた後」の話です。
本当に必要なのは、その瞬間を生き延びる場所。つまり、逃げる前に命を守る構造と設備なのです。それがシェルター(退避空間)です。
避難所は「発災後に身を寄せる場所」ですが、シェルターは「その瞬間に命を守るための空間」です。
私たちは、これまで語られてこなかったその差に、今こそ目を向けなければなりません。
そして今、新たな問いが私たちの前に浮かび上がっています。
「もし明日ミサイルが降ってきたら、あなたはどこに隠れますか?」
北朝鮮の弾道ミサイル発射は、もはや年に何度も繰り返される「実験」として報道されるようになりました。
しかしそれは「日本を想定した攻撃訓練」に他ならないと思いませんか?
「着弾していないから大丈夫」ではなく、「着弾しないようにしているだけ」という現実を直視する必要があります。
日本は、戦後80年という長い時間を、「備えないことで生き延びてきた」国なんだと認識すべき時かもしれません。
攻撃されなかった、戦場にならなかったという事実は確かに尊く、貴重なものです。
しかし、それを「備えなかったおかげ」と錯覚したまま制度や文化を形成してきたことで、私たちは「備えるという構造と意識」を失ってきたのかもしれません。
これからの10年も前の80年と同じだとお考えですか?
今、必要とされているのは、備えるかどうかの議論ではなく、どう備えるかの実行力が伴った議論ではないでしょうか。
「シェルターはあったほうが良いか?」と問われれば、おそらく多くの日本人は「あったほうが良い」と答えるでしょう。ではなぜ整備が進まないのか・・そう思うことが多くなりました。
自然災害、武力攻撃、パンデミック、停電、そして複合災害・・どのような立場の人にとっても、「命と社会機能を守る設備」は本来あってしかるべきものであり、多くの人がその必要性を直感的に理解しています。
にもかかわらず、現実には実効性のある整備が十分に進んでいるとは言えません。
政府は武力攻撃に対応した「緊急一時避難施設」の整備を進めているとしていますが、現時点では適合しうる既存施設のカウントにとどまっており、その実態や所在について国民の多くは把握していません。
では、なぜこれほどのギャップが生じているのでしょうか。
JMSOではこれを「責任の空白構造」「ババ抜き構造」と捉えています。
この構造では、すべての関係者が「合理的な判断」をしています。
国は「制度が未整備だから自治体が判断すべきだ」と言い、
自治体は「国の基準がないので動けない」と言い、
住民は「行政がなんとかしてくれるだろう」と考え、
民間事業者は「投資しても回収できない」と判断する。
専門家も「自分の分野ではない」として静観する。
このように、誰も間違っていないのに、誰も動かない。結果として、地下の空間の数だけを数えるような「数合わせ」が行われ、実効性は誰も検証しないようなことになるのです。シェルター整備は進まないまま、危機だけが進行していくことになりかねません。
JMSOは、この構造には11の壁があると分析しています。
- リスクの先延ばしバイアス(今のままでいいという正常バイアス)
- 責任の転送構造(ババ抜き的な押し付け合いとタブー感)
- 制度・基準・設計ガイドラインの不在
- 公共性と倫理のジレンマ(全員を守ろうとすると動けなくなる)
- 象徴の不在(先行事例・モデルケースの不在)
- イメージの汚染(軍事向け、富裕層向け、特定人物向けという誤解)
- 避難所文化との混同(公民館とシェルターの違いが認識されていない)
- 費用対効果と責任の曖昧さ(費用と効果の方程式が無い)
- 民が先行しても制度が追いつかず、官が主導すれば動けなくなる矛盾
- 感情と構造の沈黙(何を守るべきかが言えず、いつしかタブーとなる)
- 「シェルター」という言葉そのものへの抵抗(軍事的印象が壁となる)
これらはすべて、単独では理解可能な判断です。だからこそ厄介なのです。誰かを責めても進みません。
「誰かのせいではあるが、誰のせいでもない」
私たちは、この視点で活動していきます。原因を見つめなければ改善できませんが、誰かのせいにしては推進力が削がれるからです。JMSOはこの構造を批判ではなく「理解」の対象とし、「最初のババを引く」覚悟で進んでいきます。
このような動かない社会の構図は、「ゲーム理論」と呼ばれる考え方で説明できます。ゲーム理論とは、複数の人や組織がそれぞれ自分にとって合理的で最善の行動をとった結果、全体としてはうまくいかなくなるような状況を扱う理論です。
たとえば、「自分だけが備えても意味がない」と皆が思えば、誰も備えを始めようとしません。これを「囚人のジレンマ」と呼びます。
あるいは、「最初に動いたら笑われるかもしれない」「軍事的と非難されるのでは」という不安から、お互いに様子を見て動けなくなる・・これは「チキンゲーム」と呼ばれる構造です。
どちらも共通するのは、「自分だけ損をしたくない」という合理的な判断が、実は非合理な停滞を生んでしまう点です。そして、これは今の日本におけるシェルター整備の停滞と、驚くほど重なって見えるのです。
では、どうすればこの硬直した構造を打ち破ることができるのでしょうか。
ひとつの答えは、「言葉よりも行動によって意思を示す」ことです。
たとえば、誰かが本当に小さなシェルターでもいいから自宅に整備し、その存在を他者に示す。そうした「行動によるメッセージ」は、ただの理想論よりもはるかに力を持ちます。
これは「ロールモデルの提示」あるいは「静かなメッセージング」とも呼べる行動です。「これは本気の取り組みなのだ」と、周囲に静かに伝わる。その姿勢が、他の人々の心理的ハードルを少しずつ下げ、次の一歩を促すのです。
言葉ではなく実践によって社会が動き始める――そうした“最初の一歩”を、私たちは恐れずに踏み出す必要があります。
